浜松の歴史
浜松の昔
・浜松の入植時期は定かではないが、明治初期と言われている。現在のように多様な漁は行われておらず、昆布漁のみであった。港の整備もなく、出漁の都度、船を巻き上げていた。
昔と比べると、現在の浜は随分短くなっている。昔は昆布乾燥は砂浜で行われていたが、砂の付着した昆布は売れなかったため、牧草地を砂利に変え、砂利の上で昆布を干す形態となった。
・東后エイ(東后家の先代)や浜辺浅次郎(浜辺家の先代)らが浜松で一番古い人物といわれている。
・岡本よしごろう
浜松近辺の地主で、有力な権力者であり財産家であった。長節から昆布盛まで土地を所有していたとされる。浜辺浅次郎が岡本よしごろうの秘書のような役割で、昆布採りをしていた。
・コンブ
当時は、昆布を製品として出荷していたわけではなく、戦争の火薬の用土として国に売っていた。
・組合
昔の組合は、石盛組合という名前であり、落石組合という名前になったのは昭和に入ってからである。
・軍艦
終戦前に、浜松の海上にアメリカの軍艦が来ている。
馬
かつては、各漁師の家では馬を飼養しており、馬で昆布を移動させたり、船を引き上げたりしていた。
昔の漁師の生活は、7?9月のコンブ漁のみで、その他の時期は馬の飼育を行っていた。また、冬は林業へ出稼ぎに行く者もおり、馬を使って材木を運ぶなど、馬は漁師の生活に欠かせない存在だった。
しかし、車社会の到来により、こうした馬の利用はなくなり、現在は草原に放牧されている姿が見られる。
戦争壕
太平洋戦争末期、北海道では道東の海岸部などがアメリカの侵攻目標になるという考えのもとトーチカ、電探所、飛行場が多数作られた。この壕はこれらの防御陣地の一つで、海岸に上陸する兵を崖上から迎え撃つものと想定されている。
浜松八幡神社
神社を守り神として集落がある。現在は年に一度9月に3日間沖止めをかけ、5集落同時に祭りをとり行っている。
【浜松八幡神社の歴史】
明治35年:東后エイが、根室よりの帰り路、西和田のあたりで子供たちがおもちゃにして遊んでいたものを譲り受け、自宅の守り神として自宅裏背面傾斜地に小祀を建てて祀った。
明治42年:東后エイに地元住民より、ご神体を部落の守護神として祀る要望がある。正式に部落のご神体として迎え、新たに小祀を建立。背臥牛八幡神社となる。
昭和9年:佐々木重朗、中野憂介らにより、社殿造営。
昭和41年:集落の名前が、背臥牛という名前から浜松となった。集落の後ろが松の木で、前が浜だったため、当時の町会長中野勇八郎(中野さんの親)が浜松という名前をつけた。同時に、背臥牛八幡神社を浜松八幡神社と改名。
昭和48年9月3日:根室地方まれに見る暴風雨のため、土砂崩れがおこり、神社は崩壊したが、住民に被害は及ばず、御神体も壊れなかった。
昭和49年:浜松八幡神社再建。現在の場所に移転。
【浜松八幡神社にまつわる話】
・御神体の姿
御神体の姿を「見せるものでもないし、見るものでもない」と、部落で見た人は誰もいない。侍の形で、瀬戸か木でできているという話もある。
・御神体の夢
浜辺浅次郎がご神体の足が折れているという夢を見る。根室の金毘羅神社の前田氏に確認をしてもらうと、本当に折れており、祭りの前に修復を行った。